ちょっとお勉強!

今日はOnTuesdayで自分が担当したページ「OIRAN」について少しお勉強しましょ~

 

そもそも花魁とはどういうものなのか、、、

 

なぜ帯は前にあって他の着物とは着方が違うのか、、、

 

 

今回はまずはその最初

 

「花魁の歴史について」

 

花魁の歴史について History of Oiran

花魁(おいらん)という言葉

花魁(おいらん)は江戸時代の遊女の位の高い人…というくらいしかイメージがわかないといった方は多いでしょう。
外国人にとっては、舞妓さんと花魁の違いも分からないくらいで、派手な方が花魁、今も存在するのが舞妓さんと思われているかもしれません。
花魁は昔の位の高い遊女で会ったことには間違いありませんが、そもそも「花魁」という言葉は18世紀の半ば以降からしか使われていません。
もともと江戸時代の遊女屋で働く女郎で、格上の「太夫(たゆう)」と呼ばれていた女郎のことを、見習でついていた少女が「おいらんちの姉さん」と呼んだことが「花魁(おいらん)」の起源だといわれています。
その頃、京都や大阪でも最高位の遊女のことを「太夫」と呼んでいましたが、吉原で高級遊女を「花魁」と呼ぶのが一般的になるにつれて、全国的に「太夫」は「花魁」に変わっていきました。
ちなみに「花魁」のもととなった「太夫」のその前の名前は「傾城(けいせい)」と呼ばれており、「城が傾くほどお金がかかる高級遊女」という意味です。
しかし、さらにその「傾城」のもとをたどると中国の歴史に残る四大美人からきており、「城の主が色に溺れて城が傾くほど入れあげる美人」ということで世界三大美人である楊貴妃もその中に入っています。
花魁は一流の高級遊女なので、ただ美しいだけではなく、15歳くらいまでの間に舞踊、和歌、お茶やお花、琴や三味線などをみっちり仕込まれます。
こういった教養と美貌を合わせ待った一握りの遊女しか花魁にはなれなかったのです。

花魁(おいらん)という言葉

遊女(花魁)の歴史について

遊女(花魁)の歴史について 江戸時代、傾城(けいせい)屋という遊女屋があちこちに点在していましたが、風紀や治安の乱れを恐れ、徳川幕府は遊女屋を認可して一区画にまとめました。
この時徳川幕府が提供した場所は、今の人形町のあたりで当時は葦の茂る僻地で「葦屋町」と呼ばれている区域だったため「葭原(よしわら)」の由来となったと言われています。
これが江戸で初めての遊郭「葭原(よしわら)遊郭」で、1617年に設置されたが明暦の大火で焼失し、浅草方面に移転し、吉原遊廓として、京都の島原遊廓、大坂の新町遊廓と並び、三大遊廓として栄えました。その中でも吉原は日本一の花町と言われ、敷地は2万坪、遊女は数1千人いたともいわれています。
そんな吉原遊廓も、明治期以降になると徐々に縮小されていき、1957年(昭和32年)4月1日の売春防止法施行によって約340年に渡った営業に幕を下ろしました。
18世紀半ばに呼ばれるようになった高級遊女の「花魁」は1950年に行った花魁道中が最後の花魁道中だったようです。

 

どうなのか知らないことも多々ある思うのでこれからはちょっとお勉強もまぜていきます~